沈黙や余白。

同僚の皆さん頭の回転がすごく早いので
会話のテンポやキャッチボールがものすごく早い。
テンションも高めで華やかさがある。
そのボールのやりとりはサーカスをみているようなエンターテイメント
それらが今まで経験してきたものとあまりに非日常(お見事!)なものなので
やりとりに出会うたび「おおー!」と見物客になってしまう。
私はサーカスのやりとりに、「よ!」と少々合いの手を入れることで精一杯で、
ほとんどは感心して見入ってしまう。
個人的には
サーカスのステージからは降りて近くの公園とかで
しっかりボールをなげつつ
お互いのボールを出さずに じっと投げるのを待っている時間も割と好きだし
その余白も味わいたい
むしろ今は余白が恋しい(ずっとその調子だったら、それはそれでしんどいのだろうけれど)
以前 アメリカの心理学者(クライエント中心療法)のカール・ロジャースの著書を拝見した際にも沈黙について書かれていて、印象にのこっている
「沈黙は、決して消極的なものではない。沈黙とは、 単に『語らざること』ではない。沈黙は、一つの積極的なもの、ひとつの充実した世界として、 独立自存しているのである。」この沈黙のなかでこそ、最も激しく深い感情が流れているのであり、 また、この沈黙のなかでこそ、飛躍的な一歩前進が準備されていることに気付かねばなりません。 カウンセラーは、この沈黙こそ、相手が自ら話し出すまで、黙って見守る姿勢が必要です。
このことについて、いくらか考えを巡らせたことがある。
静寂に見える表面の中に、激しく深い・強い力が動いていて
それは一見 外からは判断しにくい。
むしろ、沈黙を自分でも受け入れなければ
深く強い前進や内なる充実というものは難しいのだろうか、とも思った。
沈黙を許しあえる会話をしたいな、、と恋しくなっているのだけれど
恐らくこれは信頼関係ができてないとなかなかお互いには難しい。

urushi-note

あちこちに散らばってしまうモヤモヤや、ふむふむを ランダムに残していく公開メモ 全く明日から使えない非合理主義

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